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エアコンの冷気が頬を撫でる。カーテン越しに差し込む陽光が、部屋の隅に不規則な影を作っている。優子は床に転がったスマートフォンに手を伸ばし、時刻を確認した。午後2時。今日も、時間だけが無為に過ぎていく。
「はぁ…」
溜息が漏れる。休暇に入って3日目。30年生きてきて、こんなにも長く感じる夏休みは初めてだった。
会社では、同僚たちが口々に夏休みの予定を語り合っていた。海外旅行に行く人、実家に帰省する人、結婚式に出席する人。それぞれが、この夏の過ごし方を決めていた。
優子には何もない。予定らしい予定は、ただ一つ。来週の水曜日に美容院で髪を切ること。それだけだった。
スマートフォンの画面を上から下へとスクロールする。InstagramやFacebookには、次々と新しい投稿が流れてくる。
「沖縄最高!」 「バリ島での思い出」 「実家でBBQ」
画面の中では、誰もが楽しそうに笑っている。家族や友人たちと寄り添って、キラキラとした表情を浮かべている。その一枚一枚が、優子の心に小さな針を刺すようだった。
高校時代の親友・麻美からは先週、LINEが来ていた。 「今度の日曜日、お茶でもどう?」
返信は「ごめん、予定が…」。 嘘をつくのは得意じゃない。でも、今の自分を見せたくなかった。充実した日々を送る麻美に、何も語れることのない自分を晒すのが怖かった。
窓の外では、蝉の声が響いている。夏の盛りを告げる喧しい音が、逆に部屋の静寂を際立たせる。
クーラーの温度を1度下げる。暑さのせいにして、震える心を静めようとした。
「私って、なんでこんななんだろう」
独り言が、部屋の空気に溶けていく。大学を卒業してからの7年間。仕事は普通に、それなりにこなしてきた。でも、何か違う。何かが足りない。その「何か」が何なのか、わからないまま時だけが過ぎていく。
携帯が震えた。会社の同僚・美咲からのメッセージだった。

「優子ちゃん、元気?今度の土曜日、私たちの結婚式の二次会なんだけど、来てくれる?」
画面を見つめたまま、優子は動けなくなった。美咲の結婚は知っていた。でも、招待されるとは思っていなかった。というより、期待していなかった。
返信の文面を考えながら、脳裏に浮かぶのは二次会の光景だった。幸せそうな新郎新婦。祝福する仲間たち。その中で、一人浮いているような自分の姿。
「ごめんなさい、体調を崩してしまって…」
送信ボタンを押す指が震えた。また一つ、嘘をついた。また一つ、現実から逃げ出した。
エアコンの冷気が、少し強すぎる気がした。でも、温度を上げる気にもなれない。この寒さが、今の自分にはちょうどいい。